飯沢耕太郎 プロフィール

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The English version is below.

飯沢耕太郎(いいざわ・こうたろう)

写真評論家。きのこ文学研究家。1954年、宮城県生まれ。1977年、日本大学芸術学部写真学科卒業。1984年、筑波大学大学院芸術学研究科博士課程修了。主な著書に『写真美術館へようこそ』(講談社現代新書1996)、『デジグラフィ』(中央公論新社 2004)、『きのこ文学大全』(平凡社新書 2008)、『写真的思考』(河出ブックス 2009)、『深読み! 日本写真の超名作100』(パイインターナショナル 2012)、『きのこ文学ワンダーランド』(DU BOOKS 2013)などがある。

IIZAWA KOTARO-Is a photography historian and critic & scholar of in mushroom literature in Tokyo. He is the author of more than fifty books, including “Geijutsu shashin” to sonojidai (Art Photography in Japan, 1900-1930), Nihon shashinshi o aruku (Walking the History of Japanese Photography), and Shashin Bijutsukan ni yokoso(Welcome to the Photography Museum), Araki!, Shashin-teki Shiko(Photographic Thinking), Shashin-shu ga jidai wo tsukuru! (Photobooks make the History!)

コメント

コメント一覧 (4件)

  • Phatphoto作家養成クラス
    6月4日ポートフォリオレビューにて
    本日はありがとうございました。
    本日レビューに参加したShouji.kこと笠原です。
    直接参加したのが私だけとのことで
    大変贅沢な時間を過ごすことが出来ました事
    感謝しております。一皮むけたような気がしています。
    これからも宜しくお願いします。

  • すみません。コメント読まれましたら削除お願いいたします。

  • 昨日はありがとうございました 柴田隆二の日本の写真家の歴史の中での立ち位置がわかりました 写真美術館でのアバンギャルド展?で見た感想ですが 戦前裕福な関西を中心とした写真趣味の人達の小洒落た芸術写真が様式化されて隆盛しますが戦争で終了します、 戦前水泳選手上がりの柴田隆二は滝口修造に出会いシュールとドイツバウハウスの思想に完全に洗脳されます 戦後 田舎町掛川に疎開した柴田隆二は作家仲間がなくて孤立無援でただひたすら 己の独自な写真世界を展開します 期間は1953から1970です 現代美術の流行りです寫眞では森山大道などの新しい寫眞の流れになって 柴田隆二はカメラを置きます、                 柴田隆二は戦後から1970年までの日本の写真家の歴史に残る作家です

  • 県立美術館で、68年前の祖母と出会う             2021年11月25日
    ――秋田県立美術館で開催中の「生誕120周年 木村伊兵衛回顧展」に足を運んで―—
           秋田県映画センター
     吉田 幸雄

     秋田県立美術館で開催中の「生誕120年 木村伊兵衛回顧展」の記事と会場写真を本紙電子版で見て、「あっ」と声を発してしまった。この日の予定を変更して、何はともあれ県立美術館へと向かった。それというのも、展覧会場に並んだ木村の作品群の中で、母方の祖母が一番目立って写っていたからだ。
     その写真(「車中の人」1953年)には、手ぬぐいで頬かぶりした3人の男女が並んで写っており、三人ともマントを羽織っている。ほぼ同じ構図の写真は「木村伊兵衛 昭和を写す 4 秋田の民俗」(ちくま文庫)の表紙にもなっているが、表紙写真の方は左手前の女性がカメラをキッとにらみつけている。
     その手前の女性が私の祖母である。祖母加藤ユハは明治27年に現在の大仙市協和荒川徳瀬の農家に生まれ、大仙市協和峰吉川に後妻として嫁ぎ、二男一女をもうけ、昭和44年に亡くなった。写真を撮られたときは59歳だった。
     生前、祖母が娘(私の母)に語った回想によると、大曲の町へ所要があり、他の二人と峰吉川駅(現大仙市)から奥羽線の汽車に乗ったところ、居合わせた見ず知らずの男がいきなり自分たちにカメラを向けてパシャパシャ取り始めたのだという。
     なるほど、祖母の表情には戸惑いが表れている。「ンタ、ヤメレ(イヤダ、ヤメテクレ)」ともいえず、「シカダネナ」とそっぽを向いたのだろう。今だったら断りもなく何枚も撮られたとしたら抗議をするところだろうが、なんともできなかったらしい。よそ行きのマントに頬かぶりとは、ちぐはぐな取り合わせのようにも感じるが、手ぬぐいは下ろしたてか洗いたてと思われ、これがれっきとしたよそ行きのいでたちだったのだろう。
     写真評論家の飯沢耕太郎氏は木村の撮影手法を「対象に自然体で向き合い、呼吸をはかり、むしろ彼自身やカメラの存在をなるべく意識させないようにしてシャッターを切っている。その『居合い抜き』を思わせる融通無碍な写真」(11月22日本紙文化欄)と評している。祖母たちも一瞬の早業になすすべがなかったのかもしれない。

     秋田での木村の回顧展は「木村伊兵衛と秋田展」(1994年2月)、「木村伊兵衛が見た秋田展」(2007年11月)に続いて今回が3回目となる。私は94年の展覧会も見ているが、子どもの頃の記憶そのままの情景がそこにあり、写真を見ていると、画像と記憶がフラッシュバックして過去と現在が交錯し、とても強い衝撃を覚えた。 開催中の展覧会には、囲炉裏のある居間で昼寝をしている一家の写真がある。手前の男性は、ふんどし一丁の裸である。朝早くからのきつい農作業では、昼寝は必須だ。私は秋田市土崎から母に連れられて峰吉川の実家へ農作業の手伝いに同行した際、眠れなくて眠っている人にちょっかいを出し、「ヤガマシッ、ネレッ」と大声でゴシャガレ、シュンとなったことを思い出す。

    「車中の人」に祖母が写っていることは、1回目の回顧展を見た親類から教えてもらい、行って見たのだが、今回改めて向き合ってみると、縄文人のような強(こわ)そうな顔ではあるが、出しゃばらず人を立て、やさしい物静かな人だった。物静かさの裏側には、どんなにきつい大変なことを前にしても、どっしりと構えてどんとこいという強さを秘めていたのだと思う。
     文庫本の表紙に写った祖母の顔を眺めていると、土崎港祭りで山車の正面を飾る、目を剥いた武者人形とそっくりだと気づいた。あるいは、大和朝廷の東征に激しく抵抗した蝦夷の頭領と言われた「阿弖流為(悪路王)」のようにも見えてくる。
     毎朝洗面台に向かって歯磨きをしている自分の顔も似てきたようで、ああ、俺は蝦夷の末裔なのだなあと再認識している。
     写真展を見ながら気になったのは、戦後復興期の貧しかったあのころとは服装も習慣も変わったのは当然としても、煩わしいとも思えた濃密な人間関係が希薄となり、どこへ行ってもあふれるほどいた子どもの数が減少したことだ。
     あの頃、夕食時にまだ外で遊んでいる子どもたちへ大人がかける言葉「ママクッタガ」が、バラバラにされてしまったと思える人と人とのつながりを再生させる魔法の言葉になるのではないか、などと詮ないことを思うのであった。

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