「飯沢耕太郎と写真集を読むvol.22 ヌード写真集を読む」講座レポ

月に一度の連続講座「飯沢耕太郎と写真集を読む」。

この講座では、あるときは写真家を取り上げ、またあるときは1つの時代や1つのテーマにスポットをあてて、写真集を味わってきました。
(これまでの講座の様子はこちら

5月15日、22回目となる今回は「ヌード写真集」がテーマです。

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飯沢さんはヌードと写真について考えるときのキーワードは「ヌード」と「ネイキッド」の2つだとします。

美しいフォルム、物体としての「ヌード」
隠されていた存在が露わになる、出来事としての「ネイキッド」

今回は飯沢さんが選んだ古今東西のヌード写真集を、この2つの視点からみていくことで人の裸を撮ること、そして見ることについて考えていきます。

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1冊目に紹介したのは『明治裸体写真帖』(1970年)です。星野長一氏という江戸から明治のヌード写真を集めたコレクターのコレクションからなる一冊で、これらの写真は当時、外国人の旅行土産としてアンダーグラウンドで出回っていたと言われています。

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続いて飯沢さんが紹介したのが日本の明治時代と同時期にあたる、フランスを中心としたベル・エポック(良き時代)のヌード写真を集めた『Velvet Eden』(1979年)です。

『明治裸体写真帖』に収められた日本の初期のヌード写真はポーズや表情がぎこちなく、どこか痛々しいものも感じてしまうのに対して、『Velvet Eden』は華やかで解放的であり、芸術作品としての成熟度が高い写真ばかり。同じ時代でもまったく異なる「ヌード写真」があることが分かります。

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次に見ていったのはアーヴィング・ペンの『Dancer』(2001年)とロバート・メイプルソープの『Black Book』(1986年)です。どちらも、肉であり物体である裸体の「モノ」としての存在感とともに、写真家の被写体に向けられた執拗なまなざしを感じます。

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そして「モノ」としてのヌードではなく、自分と自分の周りの出来事として裸体(=ネイキッド)を写したのがナン・ゴールデンの『the Ballad of sexual Dependency(性的依存のバラッド)』(1986年)です。愛する人のカラダ、恋人に暴力をふるわれて負った傷など、切実さと痛みが伝わるような「コト」としての写真集であり、日本の写真家にも影響を与えた一冊です。

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日本のヌード写真集から飯沢さんが選んだのは、変わりゆく東京の街とヌード写真を同時に並べた荒木経惟『TOKYO NUDE』(1989年)と宮沢りえのヌード写真集として話題となった篠山紀信『Santa Fe』(1991年)の2冊でした。
美しさや若さの陰にある消え行く存在の儚さを感じさせるような「ヌード」であり「ネイキッド」でもあるカラダが写されています。

ほかにも講座ではポール・アウターブリッジ Jr.『Photographien』(1981年)やオランダのクリエイター集団Kesselskramerの写真集『Useful Photography#8』(2008年)も取りあげました。紹介できなかった写真集もあったので、続編もあるかもしれません。

今回は時代や国を超えて「ヌード写真集」というテーマでたくさんの写真集を見ていきましたが、次回は打って変わって、ウォーカー・エヴァンズの『アメリカン・フォトグラフス』(1938年)という1冊の写真集を1時間半じっくりと時間をかけて読み解いていきます。

【次回講座のごあんない】

飯沢耕太郎と写真集を読むvol.23
「ウォーカー・エヴァンズ『アメリカン・フォトグラフス』を読む」

6月19日(日)

10:00~11:30

2500円(三年番茶付き) 学生割引 1500円(三年番茶付き)

定員 15名

場所 めぐたま

* お申し込み megutamatokyo@gmail.com

*たまにメールが届かないことがあります。3日以内に返信がない場合、お手数ですが再度メールくださいませ。

*前日、当日のキャンセルは準備の都合がありますので、キャンセル料をいただきます。

*飯沢さんと一緒にランチを食べる方は事前にお申し込みいただけると嬉しいです。(休日ランチ1500円)

 

写真/文 館野帆乃花

 

 

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